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2009年05月14日

56 わかってくれる人だけでいい

人によって物事に対する「認識の差」があることは否めない。
また、「解釈の差」があることもまた同じである。

ある事実・物事を「これは○○である」と知覚・認識し、それに対して「これは□□である」という解釈をする。
例えば交通事故のシーンを目撃して、「これは信号無視の車と歩行者が接触し歩行者が負傷した」という事実認識があり、「信号無視した車の運転手が悪い」と善悪・法律などの判断・解釈がある。

多くの場合は、解釈の差がイザコザの種になる。
「歩行者がボケっとしているのが悪い」と解釈する人だっているし、「普段から危険な運転ばかりしていたのだから、そうやって事故を起こすことで運転手も悔い改めるだろう」と解釈する人もいる。

(つまり、ここでいう認識の差と解釈の差は、それぞれ客観視と主観視の差の事である。)

ちなみに、人によっては、事実認識がうまくできない人もいる。
それは、物事を注意深く見ていない事に由来する場合もあれば、事実認識ができていても、単にそれを言葉にして上手に表現できないだけの場合もある。


ただ、誤解を恐れずに、もっとも言いたいことは、

「オマエ、バカだろう!」

と言いたくなるくらいの、この事実認識に差がある人々に対しての思い。笑


解釈の差は埋める余地が多いが、認識の差は埋める余地が少ない。
例えば、宗教や民族性などの理由で死生観が異なるのは、その差を宗教と民族性というものに求めることができるので、お互い理解しやすい。
その点、認識の差は、認識自体に差があるので、そこに理由は存在しない所に、溝の深さがある。

まあ、逆にいえば、ある意味、個々の認識「自体」を否定することはナンセンスなことなのだが、それにしても、ありえない認識を示す人がいるなあ、、と思うことは多々ある。
そういう人たちに、「オマエバカだろう」と言いたくなることは何度かある。
ということだ。


でも、なんで、そんなに差が生まれるのか?
考えてみた。


思うに、思想や信条、知識や知恵によって、解釈の差は生まれるのだが、それらの「力」というのは想像以上に強く、「認識」にもかなり影響を与えているのではないか。

つまり、簡単にいえば、その人の思想信条・考え方によって唯一普遍の事実でさえ、まったく異なって見えるということである。

つまり、そうだとすると、「物事・事実をありのままにとらえる力」というのは存在しないのだ。
つまり、事実は事実であり一つしかないと考えるのはそもそも間違いであり、なぜなら人それぞれ、ひとつの現象に対して「異なる」事実認識があるからである。


ちなみに、人は「生まれ持っての能力」の差というものがある。
目や耳、知覚機関すべての能力、そして、DNAに含まれた2000年いや、人類創生以来のデータの蓄積をすべての人間が持っており、それによっても、随分、事実認識の差は生じる。

人はみな赤子の時は「0(ゼロ)」である、「スタートラインは皆一緒」というのはウソであるのだ。
既にスタートラインから事実認識能力に差がある、のである。


例えば、芸能人の「タモリ」はテレビでよく幼稚園時代の話をよくする。
お遊戯がつまらなくて、「なんでこんなバカなことを。。。」と、いつも思っていたという。
普通、幼児に「お遊戯は楽しい?」と聞けば「楽しい。」と答えるだろうし、自分がお遊戯をしていることに疑問すら抱かないだろうが、タモリは全くそうでなかったと言うのだ。(真偽の程は知らんが)

ちなみに自分もそうである。
バカバカしいというか「とても恥ずかしかった」。
ただ注意しなければならないのは、これは、解釈の差ではないのだ。
一見して解釈の差であるが、「お遊戯」という「事実」を人よりも客観的に見ているから、こういう感想が生まれるのである。

まさに、これくらいの年代では、生まれ持っての「DNAによる差」が大きな影響を与えているのではないかと思うのだ。


さて、「認識の差」とは今自分がなにをしているかを正確に把握することでもある。
大人になっても今自分がなにをしているのかをわかってない人がいる。
例えば、日々を惰性で生きている人が、その一例である。
(当然のことながら、そのような人に、こういう話をしても、「あっそう」と受け流されるだろうけども。笑)

今自分がなにをしているかを正確に把握すること、つまり、いつも「目覚め」てなければ、物事が複雑に入り組んだ今という時を生きるにおいては明らかに不利であるし、愚かな選択をする。

たとえそれが、世間一般では常識でも、愚かな選択をする。
愚かであるというのは解釈の差であるが、ここでは生物学的に見て愚かであるという意味だ。

例えば、大津波が来たとして100人いたら90人は流される。
残りの10人は、今どういう状況なのかを把握しているので、穴を掘るか山に登るかしてそれを避ける。

流された人は、津波を津波として認識できてないか、認識が曖昧であるから「周りの人に合わせておこう」となるのだ。(結果流されていく。)
流されない人は、津波が来た事を明らかに認識できているのである。
つまり、至極当然の結果・リアリティとして津波を見ているのである。


物事の理(ことわり)がわかっている、自明である、という感覚を「持つ人」と「もたない人」、自覚できているかどうかの差は、(敢えてスピリチュアルな要素を排除すると)DNAに刻み込まれた情報の差ではないかと思うのだ。

わかっている人から見れば、わかってない人の知覚範囲は理解できるのだが、わかってない人は、わかっている人の知覚範囲をまったく理解できないか、もしくは、間違って理解するのは自明である。
(いや、これを自明であると言い切れるのも、認識の差が大きく影響しているのかもしれないが。。)
よって、わからない人は、わかっている人が言う事を理解できなかったり、そもそも信じられなかったりする。
しかし、わかってる人にとっては、それは現前たる事実として映っており、事実を伝えているだけに過ぎない。

しかし、「これこそ天才と凡人の差」などと思うのは「早がってん」である。
単に、認識の差の話であるのだから。

さてさて、ちなみに自分は少数派である。
100人いたら10人の方である。
誤解のないように、決して自分のような人間こそが「助かる」と言ってるわけではない。

時には、「自分が何をしているか、事実とは何か?」を把握しているからこそ、波にのまれることもあるだろうし、そのため「助からない」「救われない」こともあるからだ。

だが、それは、単に少数派だから助からないし救われないのであって、自分の事実を歪んで理解しているから助からないのとは異なる。
この点だけは、声を大にして言いたい。

少数派だからダメであるという世間の浅はかな批判は甘んじて受けようとも、自分の事実はしっかりと正確に認識しているのである。

だからこそ、自分の事をわかってくれる人が一人でもいればそれでいいと度々思うのだ。
少数派だからこそ、「これでいいのだ」と確信できる理由を外に求める事が難しいからだ。

それゆえ、「考えても仕方ない、くだらない、理解できない、それは違う」、などと言わず、例え表面的にしろ自分の思いに耳を傾けてくれる人がいれば、自分のような人間にとっては、その人は神にも映る。

それくらい、ありがたいことなのだ。

投稿者 inu : 2009年05月14日 03:00